ふーばあの田舎暮らしだより NO.36 最終回

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー36- 2013.5.30.石上 扶佐子
   
<最終回>


 この連載の番号は、途中2回、重複する間違いをしているので、今回は36回目となる。最終回だ。3年間毎月、この小文を書かせてもらった幸せを、深く感謝している。

 「3人目の子供を産みたいので、手伝いに来てほしい」と言われ、喜びいさんで安曇野に移住したのが、5年前の春だった。夏に無事、息子夫婦に3人目が生まれ、その子もやがて5歳になる。孫の誕生から5歳になる日までをつぶさに見る事ができ、息子夫妻の農場を営む生活や、孫3人に囲まれて暮らす生活をしっかり味わうことができたのは、この上もない喜びだった。安曇野は美しかったし、家族に加え、ウーファーさんや農場スタッフとの日々は賑やかで楽しかった。孫たちは切ないほど可愛かった。

 食事作りはやりがいがあり、2年ほど手がけた菜園はあれこれの工夫が面白く、作業の気持ちよさは格別だった。挫折はしたけれど、庭作りもなんという楽しみだったろう。冬は寒かったが、一年の多くは、溢れる程の果物と野菜に囲まれて過ごした。

 息子夫妻の繋がりの中で、多くの友人を得た。安曇野に暮らす人々は多彩で深々としていた。けな気でピースフルだった。人に魅せられて暮らすことは幸福なことだった。短期滞在のウーファーさんたちからは、いつも新鮮な風が吹いてきた。若い人、外国人とこんなにも心通わせて過ごせるなんて。ホメオパシーや太極拳やフラといった、生涯の宝に巡り会えたのも、ここだった。

 子供の成長を見れば解ることだけれど、幼年期がどれほど豊かで幸せであっても、やがて少年期になる。小学校生活がどれほど充実していても、やがて中学生になる。時はそのように、次の時代を運んでくる。その時代、完璧では無かったけれど、やり残したことも沢山あったけれど、しかし、次のステージが、ある意味では自動的に来るのだ。

 そのような意味で、私にも次のステージが来てしまった。引っ越しは6月の始め、今、荷造りの真っ最中だ。
 荷物を減らすのはほんとに大変で、一枚の布を手にして、じーっと考えこんでしまう。決断がつかなく、結局捨てられない。この際に断捨離!と思っていたけれど、成しとげられずに移動ということになりそうだ。
 
しかしアルバムだけは、そうもいかない。家族のアルバムとして私が作ったものは40数冊、重くて、もう運べないのだ。それで、数日をかけ、すべての写真をアルバムから引きはがした。はがした写真は4人の子供たちと私用の5冊に分けて作り直そう。
 
どの写真にも背景があり、それに伴ってさまざまな感情がよみがえる。可愛さ、美しさの感動は強まり、哀しみは薄まっている。辛かった日々のことも、それがあったから次が開けた、と認識できる。それにしても、はち切れる程の喜びにあふれた時が、なんて沢山あったのだろう!

時々の喜びは消えないのものようだ。これからの日々もまた、幸せを重ねて行きたい。



テーマ : オーガニックライフ
ジャンル : グルメ

ふーばあの田舎暮らしだより NO.33

ふーばぁの田舎暮らしたより


ふーばぁの田舎暮らしだよりー33-        2013.4.29 石上 扶佐子


 4月の半ば、早めに夕食を済まし、家族とウーファーさん全員で、ライトアップされた夜桜を見に、松本城へ行った。黒と白の松本城が端正な姿で夜空に立ち、堀端の桜並木は、満開の花をたわわに、夢見るように、黒い水面に白く映って揺れている。城内の桜の大木の下に立って見上げると、幾万の薄紅色の花房が、百重にも重なって頭上を覆い、枝枝とと花々の奥に、夜空が深々と広がっていた。

 石畳の道を、和服の裾を気にしながら、小走りに下駄で歩くと、カラコロと音がする。静かに歩くことも出来るが、下駄の音が好きで、ふざけがてらについ音をたててしまう。桜の下を浮かれ加減に歩いていると、明治期に松本の城近くで生まれ育ったひとりの女性を思いだした。彼女もきっと、この道をこんな風に歩いたに違いない。楽しげにカラコロと歩く、少女の姿が見えた。少女の名は青柳さく、といった。

 さくは明治19年、青柳家の次女として生まれた。青柳家は江戸時代から、御用商人として雑貨、小間物を藩家中に納め、上級武士の住む大名町に店と蔵を構え、商人の町である和泉町に住居があった。和泉町の生家は、城の敷地から300メートル東を走る松本街道沿いにある、現在の城東郵便局から南に数件下ったあたりだった。

 生家からこの通りをほんの100メートルあまり下った所に、当時、聖書の販売所があり、エルマー牧師夫妻や日本人キリスト者の拠点となっていた。さくがこの通りを下駄の音を響かせて行き来していた5歳のころ、そこには7名の伝道女が奉仕をしており、「日々学校」が開かれていた。さくは幼い日より、キリスト教に馴染んでいた。

 明治20年には開智学校(小学校)に幼稚園ができているので、生家から近いこの草創期の幼稚園に通っていたかもしれない。やがてさくは、開智学校で学び、松本高女の第一期生として卒業し、教職に就いた。第一期生103名のうち、社会へ出て仕事についたものは僅か8名だったから、彼女は先進的な女性だったといってもいいだろう。
 さくはやがて、穂高にあった井口喜源治の私塾、研成義塾の教師となる。新宿中村屋の相馬愛蔵や若き日の萩原碌山の協力で設立された研成義塾は、内村鑑三に見守れながら、優れた教育をなし、多くの人材を輩出した。初めの12年間、教師は井口一人で全教科を教えるという驚異的なものだったが、青柳さくの赴任により、裁縫他の女子過程が充実し、生徒数は大幅に増えた。さくは井口を助け、子供たちを愛し、一心に仕えた。さくが働いた12年間が、この私塾の黄金期でもあった。

 塾は貧しかった。井口は年々自分の土地を売りながら経営を維持したが、借金はかさむ一方で、教師の給料は少なく、住居や食料の確保にも事欠いた。やがて、さくは過労と栄養失調の中で突然の死をむかえる。35歳の若さだった。
 彼女はひた向きに生き、天命に殉じた。殉じることは、命をも捧げることだ。彼女は幸福だったと思う。この4月、桜の下で、その尊さを思った。

2013年5月ふーばあの田舎暮らしだより
ライトアップされた松本城

ふーばあの田舎暮らしだより NO.32

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー32-          2013.3.30 石上 扶佐子

 4歳の叶和が高熱を出し、インフルエンザと診断された。その夜、真っ赤な顔で息を荒げている彼に、私は愉気をした。頭とお腹に手を添え、祈るように気を送り続けて半時あまり、彼はすやすやと眠りについた。


 2日後、私が高熱を出した。医者に行けばたぶんインフルエンザと診断され、タミフルを処方してもらえただろうが、どうにもしんどくて当番の急患クリニックに行く気になれなかった。家で麻黄湯とホメオパシーのジェルセミウムと、刻々と現れてくる諸症状に対応するレメディをとりつつ時を過ごし、一時は41.1度になった熱は、3日後に治まった。


 熱が高かった時、激しく襲ってきたのは、凄まじいほどの寂寥感だった。過去2回、開腹手術をした後に苦しんだ寂寥感を思い出したから、単純に考えれば、身体が弱るとこのような気持ちに捕らわれる、ということなのだが、もっと深い必然がありそうだった。元気な時には隠されていた思いが、時を得て意識にのぼり、全うされることを望んでいる。忘れないで、それもまた私なのだから、と自覚を迫っているようだった。


 病を得る事は、忘れていた半身を思い出し、健康な明るさの中で見落としてきた本当のことに出会う、貴重な時間なのかも知れない。陰の半身に心を留めることは、全体性の回復への足掛かりとなるだろう。


 生まれれば死に、出会えば別れ、日常の裏にはまだ果たせない夢があり、私の喜びの陰に誰かの悲しみがあるかもしれない。生も死も、出会いも別れも、日常も夢も、喜びも悲しみも、それぞれに、そのことを全うし、成仏して欲しい、と強く思った。光と影との両方を生き、そういうことが生きることなのだと、静かに納得したかった。


 4日間寝て、ご飯作りの仕事には復帰したけれど(2日間は半日でダウン)、その他の時間は縫い物をしていた。眠っていた絹の帯を締められるように成仏させ、針を動かしながら、去来する様々な思いを成仏させたいと願った。家族のそれぞれの思いも成仏すればいいな、と思う。もっと広く成仏を願えるようになれば、尼僧になれるかもしれない。


 和服に関するエッセイを読んでいると、和服は弱った身心を支えてくれる、という文に出会う。なるほど、今の私にとっては、和服も半身のようなものだ。半身に支えられ、半身と巴になって立っている。バイクに乗る時も和服でいたい、という思いを成仏させるためにあれこれ考え、裾さばきが難点のウールの着物を上下に分けて、下半分をズボンにすることにした。上は帯をして和服風に着る。これなら太極拳もできる。


 太極拳では、連続するゆっくりとした手足の動きは、円を描きながら、数秒ごとに陰陽が切り替わっているという。陰極まれば陽が生じ、陽極まれば陰が生じる。半身と半身もそのような関係だろう。成仏する命を乗せて地球が回っているように、諸々を成仏させつつ、私も回っていきたい。停滞なく、切り替わりつつ、極まって反転し、やがて全体に近づく。回復するにつれ、苦しい気持ちは消えていった。寂寥は成仏したのだろうか。

ふーばあの田舎暮らしだより NO.31

ふーばぁの田舎暮らしたより


ふーばぁの田舎暮らしだよりー31-         2013.2.26.石上扶佐子

  
 妹から電話があったのは、夜になってからだった。「父が転倒骨折をし、介護が必要になった」との連絡で、翌朝早く、私は東京の父の家に向かった。
 

父はもうすぐ89歳。川崎に住む妹のこまごまとしたこころ配りがあり、ヘルパーさんの助けをかりながら、父と母とで暮らしている。私が介護のために赴くのは初めてのことだが、介護職として過ごした日々が長かったので、私の心は弾んでいた。


 着いてみると、喘息持ちで耳の聞こえない母の方が、げっそりしていた。父との会話が成立しない母との筆談は、母の顔を明るくし、私も心が和んだ。母の代わりに3人の小さな食卓を用意するのも、楽しかった。


 幸い、父の背の圧迫骨折は、日にち薬で治ってゆくという。父は痛み止めを飲みつつ歩行への意欲を示し、私の介護へのいたわりをみせた。夜間の用事では隣りに寝ている私を起こすことになっていたが、数日後からは、手すりに摑まりながら、なんとか一人でトイレまで歩いた。父は63歳の私に「赤ちゃんの頃と同じ、可愛い顔をして眠っている娘を、起こす気にはならなかった」と言った。父ならではの言葉で、胸が詰まった。
 


私が高校2年生の時に父が家を出て以来、一つの家で共に眠ったことは皆無だったから、この日のために、父は今まで生きていたのかも、という思いがよぎった。私が和服を着て一日を過ごすことを喜び、和服で踊るフラが、父と母の笑顔と拍手を引き出した。
 

 父と母の小さな家は、壁という壁に美術書や全集本がぎっしり並び、二階の母の空間は衣類で埋め尽くされている。私の手荷物は行き場がなく、階段の途中に置かれた。父が「お前がずっとここにいてくれたらなぁ」と言った時、私は答えた。「そのためには、本を少し売って、私がいる場所を作ってもらわないと」。父はしばらく考えてから言った。「本は俺の人生だから、これを売るわけにはいかない。」


 父はそういう選択をした。今までも、そのように選択をして生きてきたのだ。それでいい、と私は思った。父は父の人生を生き、私も私の人生を生き、互いにそれを全うしつつ、これからは、介護を仲立ちとした、短くも豊かな時間を少しずつ味わってゆこう。
父は日ごとに元気になり、6日目の朝ショートステイに送り出して、今回の介護は終わった。私が父の家にいた短い時間も、老人施設の施設長をしている妹が、適切な判断と実行で、父と母と私を助けてくれたことに、深く感謝している。


 安曇野に帰って5日後、私は再び安曇野を離れた。これは以前から予定していた10日間の避寒旅行だが、農場の家族が予定どうりに送り出してくれたことに、感謝している。静岡の従妹の家にステイさせてもらい、温泉やホテルでランチの楽しい日々。ご馳走になっている叔母や、沢山の心配りをいただいている従妹に感謝しつつ、生誕地での懐かしい人たちとの交流を深めている。

ふーばぁの田舎暮らしだより No.30

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー30- 2013.1.30. 石上 扶佐子


5年前の今頃、私はまだ京都にいた。3月に退職し安曇野に移住することになっていたので、荷物を減らすために身辺整理に精を出していた。それなのに、私は和服の古着を買い求めた。京都では絹や麻の古着の着物が沢山出回っており、見るとついつい欲しくなる。安価でもあった。古着屋の主人に「そんなもん買うて、どないしはります?」と問われて、答えられなかった。しかし、ともかく絹や麻はそれだけで魅力的だった。

 
衣装ケース2つ分程の余分な荷物を安曇野に持ち込んだまま、中をきちんと見たり着物に袖を通すことはなかった。いつか和服を着たいとは思っていたが、慣れない農場の暮らしの中で、それはあり得ないと思うようになり、絣の着物をほどいてスカートにしたり、好きだった小梅模様の絹の着物を太極拳用の服に作り替えた。
最近、赤い絹の着物でフラダンス用のスカートを縫い、とても気に入ったので、もう一つ作ろうと思い、紫の紬をほどきかけた。ふと、袖を通す気になり、着てみると、わくわくするような嬉しさが湧いた。あれれ、案外にいけるじゃん!


ここでの暮らしも5年が経とうとして、着物を着てみたいという余裕が出てきたのだろう。手近かな小物で和服を着て一日を過ごしてみた。絹の襦袢に絹の袷は暖かく、軽く、動き易く、肌に触れる感触が快かった。
下駄を探したら、京都の履物屋で求めた漆の下駄が出てきた。和服を着るのをあきらめていた時期、普段の突っかけとして一時その下駄を履いていたので、塗が剥げたり絹の鼻緒が擦り切れそうになっていたが、その下駄をていねいに洗っていると、京都を去る最後に抱いた強い思いが蘇った。下駄は求めるには躊躇する値段だったけれど、たった一つの贅沢と思ってそれを求めた時、いつか和服を着てみたいと、切に願っていたのだ。
まだ半月ほどだが、一日を着物で過ごすようになった。棚の上のザルを取るために腕を伸ばすと、着物の袖がするすると落ち、絹ずれの感触が腕に楽しい。割烹着を着て鍋の前に立てば、姿勢もシャンとして味見だってピシッと決まる。移動は小走りになり、羽が生えたように軽く、嬉しくてたまらない。


太極拳の教室で歩き方の練習をした時、正しい歩き方が、和服を着ている時の歩き方と良く似ているのに気が付いた。先生は「そうですよ、それですよ」とおっしゃった。「だから、昔の人は東海道だって、長距離を疲れずに、いくらでも歩けたのだ」と。


この快さはなんだろう。この安心感、この本来性。これは昔の記憶ではないだろうか。長い年月をこのように過ごした、その日常の安堵の記憶なのではないだろうか。着物を着よう!と思い立ち、にわかに忙しくなった。半襟をつけ、帯や腰紐やたすきやショールを縫い、襦袢は着易いように手直しをした。襦袢の下に着る絹の肌着も作った。幾つか替えもほしいし、ちゃんちゃんこや前掛けも作りたい。着物も作ってみたい。

初めて知ったこの素敵さを忘れずに、ずっと着物姿でいられたら、と強く願う。

2013年1月ふーばあ


テーマ : オーガニックライフ
ジャンル : グルメ

ふーばぁの田舎暮らしだより NO.29

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー29-           2013.1.5. 石上 扶佐子


 私が安曇野通りの朝日と呼んでいるものは、この安曇野を照らす暖かくて清々しい陽射しのことだけれど、心に朝日を持つ人々を多く知っているので、その方々のことを指す場合もある。その中の幾人かが関わっている数年来の住民運動に、ふとしたきっかけから、私も関わるようになった。


 それは、不法な手続きにより、近所に忽然と現れた産業廃棄物工場の、操業許可取消を求める裁判闘争で、突然に降りかかってきた火の粉を払うために、近隣の住民が身銭を切り、多くの時間と労力を費やして闘っているものだ。


 親しい友人とのお茶の席でそのことを知り、つい、何か私にお手伝いできることがあれば、と思って始まったのだが、関わってみて、このことに力を合わせる人々に魅せられてしまった。人は誰でも、魅力的な存在なのかもしれないが、普段この辺りを歩いているだけでは、とてもそこまで知ることは出来なかったと思う。


 私は遅れて参加し、○○運動というものにも疎いから、大したことは出来なかったが、それでも、枯木も山のにぎわい程度に裁判や記者会見の傍聴に行き、拙いルポを書き、市民の会や地域の会、事務局の会合にも出させていただいた。


 一目惚れであれ、じっくりとであれ、魅せられる、という体験ほど幸福なことはない。私利私欲を離れ、自分の持てるものを出しあい、発見し、協議し、決断し、実行し、反省し、また次へ進む。そうした過程に魅せられた。魅せられて歩む報酬は、さらに魅せられる、という幸福だったように思う。裁判は是非とも勝ちたいし、産廃工場は操業を停止して欲しいけれど、結果がどうなるにせよ、過程を歩み耕した幸福な体験は、私の宝となるだろう。


フラのダンス曲に「心の星」という歌がある。可愛い曲で、歌詞がいい。
「楽しい時間はすぐに過ぎてしまうけれど、今この時もいつかは、思い出に変わるけど、
記憶のかけらは星になり、心の中で輝き続ける。どんなに暗い夜が来ても、あなたの道を照らし出すよ。不思議ね、あの時までは、顔も知らなかった。今ではかけがえのない人に変わっている。(中略)輝け輝け心の星、大きな空を埋め尽くして」


 この歌は、安曇野のテーマソング、地球宿や、ウーファーさんと暮らす我おぐらやま農場のテーマソングのようだ。あるいは一つのファミリー、一組の男女に贈る歌かも知れない。幻を見、夢を描き、あるいは降りかかる火の粉を払いながら、あるひと時を共に過ごしたその過程は、魅せられた幸福な体験として、心の星となり、行く道を照らす。


 正月になってから年賀状をかく癖がついてしまったのは、どうかとも思うが、一杯飲みながら、受け取った賀状をしみじみ味わい、心を注ぎ込んで新年の挨拶を書いた。一枚の葉書の向こうにいるのもまた、心の星の皆様で、あの歌の通り、困難な時に無言で、あるいは言葉で、私の行く道を照らし出して下さった。ほんとうに、ほんとに、ありがとう。


ふーばあ2013年1月

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ふーばぁの田舎暮らしだより NO.29

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー28-           2012.11.29  石上扶佐子

 輝ちゃんがママ友と楽しんでいる、フラダンスの教室の発表会があったので、孫たちと見に行き、私はフラに一目惚れをした。先生は安曇野に移住して日が浅く、教室もまだ始まったばかり。若いママたちのフラは、あどけなくて可愛いかった。


 思いが募って、私も2度ほど、初歩の手ほどきを受けた。 


 フラの教室は先生のお祈りで始まり、お祈りで終る。地の底から湧いてくるような、低く渋く命の力に満ちたお祈りだ。ハワイ語なのでその意味はまだ解らないが、雅楽を思わせるメロディが、染み透るように響いてくる。


 数人の生徒たちも、輪になってお祈りをする。ハワイ語のその意味は「目覚めよ、東にある太陽が、深い海から天に昇る、目覚めよ、そこに太陽がある」。それから輪になって座り、アロハ・スピリットのお話を聞く。愛に満ちた不思議な世界だ。


 録音された、先生の御夫君のギターを伴奏に、フラのステップを学び、皆で踊る。動きについての注意点は、太極拳の先生の言われることと驚くほど似ている。天からつられるように真っ直ぐに立ち、肩の力を抜いて軸を探り、腰を低く下半身を安定させ、足の裏から大地の気をもらい、能のように動く。先生のフラの動きは、柔らかく伸びやか、暖かくて慎ましく、とろける程に美しい。腰の動きはメビウスの輪のようだ。


 最初はステップなのだが、これがほとほと難しい。波を表現する腕の動きも教わった。右腕を横に広げ、左腕を肘から曲げ胸の前で水平に保ち、手先を波のようにゆらゆらさせる。その時、曲げた腕の指の先は、身体の中心線から飛び出してはいけない。何故か。


 左手は右の領域に入らず、右手は左の領域に入らないこと、が大切なのだ。私の場合、曲げた左手は大きく中心線をはみ出し、右肩辺りでひらひらしていて、先生に幾度も注意された。フツウにしていると、はみ出している。


 左手が右手になびきながらも、左手の先が身体の中心線を出ない先生の動きはとても美しい。太極拳の先生は「身体に軸が出来てきたら、、、、」とよく言われる。私にはまだ軸がなく、中心線の感覚がないのが良く判る。
 

二か月前のこの便りに書いた「世代間境界」は、当初考えていたよりも、ずっと奥が深いことに気が付いた。軸がないから、境界も見えないのだろう。境界が見えないと、様々な場面で問題を引き起こす。無自覚に引き起こしているご迷惑にも、心が至るようになった。


 原罪と言うにはおおげさかも知れないが、存在には確かに、そういう要素もある。だから、消えることの大切さもある。消えることができない場面では、そのことを自覚し、注意深く「目覚めて」いる必要がある。境界があれば、境界を越えて伸びて行く愛もある。そこに太陽があることに「目覚めて」いること、でもあるだろう。


 ネイティブ・ハワイアンの伝統文化に由来した「ホ・オポノポノ」のおまじないは「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」というもの。「ありがとう」と「愛しています」は自然に言えるのだが、あとの二つはなんだか苦手だった。しかし、やっと、この全部を、心から、自分の本当の思いとして言えることができるようになった。
 

寒い冬が来るけれど、フラの練習で、暖まろう!

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ふーばぁの田舎暮らしだより NO.28

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー28- 2012.10.30  石上扶佐子


ギター曲のCDを部屋に流しながら過ごす時間が多くなった。イェペスやセゴビアの素朴でリリカルな響きが、秋の田舎の空気に良く似合う。


 ギターを聴きながら縫い物をするのは極上の時間だ。何時とはなしに、孫たちも傍らに来て、一緒にギターを聴き、静かに指を動かしている。


 小5の男の子がまず初めに、私の棚からフェルト布を引っ張り出して、ポケットティッシュケースを作った。可愛いボタンを選んで縫い付け、素晴らしい出来栄えだ。


 次の日は4歳の男の子も来て、私と兄ちゃんのそばで、ハンカチを作った。運針も上手な美しい一枚。この日兄ちゃんはリクエストに答えて、二つ目のティッシュケースを作り、妹の名を刺繍した。


 その次の日は、小2の女の子も来て、財布を作り、兄ちゃんから刺繍の仕方を教わった。3人の孫と私が、ギターの流れる部屋で、裁縫をしていた。それぞれ自分の作っているものに夢中で、耳はギターを聞いていたから、狭い部屋に4人がいても、静かな秋の夜長。しみじみと幸せな時間が過ぎて行く。

 今日は孫たちの小学校で音楽会があった。全校生徒1100名の大きな学校で、毎年の音楽会は全員で取り組み、その出来栄えはみごとなものだ。6年生の合奏などはオーケストラのような迫力と感動がある。


 合唱もいい。曲も歌詞も耳を澄まして聞いてしまう。合唱曲というのは、素直さと透明感に溢れた独特の雰囲気がある。そして何よりも、子供たちの歌声、その音色だ。どうして、こんなに素敵なんだろう。

孫の保育園で、祖父母参観があった。保育園では先輩の孫が、不慣れな私を招き、案内してくれるという構図が、なんとも楽しい。孫と祖父母が園庭に出て遊ぶ時間、孫はゾウリ虫のいる秘密の場所に私を案内し、懸命に虫を探して手のひらに並べ、これプレゼント、と差し出す。うん、うん、ありがと。


ブランコで孫の背中を押していると、隣のブランコにも同様のおばあちゃんがいて、祖母同志の話が弾んだ。孫って、どうしてこんなに可愛いんでしょうね、と言う話になった時、その方が言った。「無心だからでしょう」。


毎週通っている太極拳の教室で、昨日大発見があった。私たちの先生は何か不思議な力で、接触もしていないのに人を飛ばし、何気ない接触で数人を総崩れに倒すことも出来る。それが、何なのか2年半も見ていて皆目わからなかった。すごい集中力で、気のジェット噴射が出ているのだろうか。


昨日は、片足を前に出し、腰を軽く捻る練習をした。その時、正しい姿勢をとり、身体の力みを無くし、軸をとり、ふわっと安定した姿勢ができると、ただそれだけで、微かであるが、接触した人をすーと押しやることができた。先生が言う。「そういう事なんですよ。大きな力が出るということは」。


私は先生に尋ねた。「それでは、心が正しく、軸があり、力みが無ければ、心に力が、、、、、」。先生は私の言葉を遮って言われた。「いえ、無心、ということですよ。太極拳をしている時って何も考えていないでしょ、あれでいいの」。


無心になりたい秋が更けてゆく。無数の紅い葉が風に舞いながら落ちて行く。山は冠雪。昨夜、あと月の満月が、安曇野の大きな空を渡っていった。


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ふーばぁの田舎暮らしだより NO.27

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー27-
                          2012.9.30. 石上扶佐子

フーバア2012年10月

 9月半ば、家族で上高地を歩いた。沢渡で専用バスに乗り換え、叶和と私は終点の河童橋で下車、他の元気な4人は途中の大正池で降り、それぞれに横尾山荘を目指した。

 4歳になりたての孫と二人で歩く上高地は、美しかった。梓川沿いの笹原に立つ木々は林や森となって緑の濃淡を作り、梢の先に見え隠れする河原は白く輝き、川の流れは陽をうけてまばゆく光っていた。

 叶和はリュックにいれた2日分のお菓子が気になって落ち着かないらしく、たびたび休憩し、その都度リュックを確かめ、割り当てのお菓子を大事そうに食べた。河原に出られる場所があれば必ず川まで走り、靴を放り出し、靴下を脱ぎ棄て、ズボンの裾をまくり上げて水に入った。

 河原でやり続けていたのは、石投げだ。適当な石を拾い、ヒューンと投げて、ボチャンと落とす。その距離、その音、その水しぶき、その輝き。嬉々とした彼の姿は、梓川の清流にも増して美しかった。

 叶和の足取りはゆっくりなので、時々ではあるが、私は彼の前に出、彼の顔を見ながら後ろ向きに前進した。彼の歩みを励ますために、歌ったりおしゃべりをした。上高地を歩く孫の姿を正面からライブで見ている、心躍る時間だった。

 あまりに道草をしたために、元気組と出会ったのは明神池を過ぎたあたり。合流して弁当を食べ、川沿いの山道を緩やかに登った。あと2時間の道のりだ。

2012年10月フーバアだより


 今回の旅の目的は「雅子さん」に会いに行く、と一致団結していた。家族6人の誰もが雅子さんに会いたくて、万障繰り合わて横尾山荘を目指した。バテそうな叶和も、「もうじき雅ちゃんに会えるよ」と声を掛けると、歩みが早くなる。他の者も同じ気持ちだった。

 雅子さんは今年の一月から3か月、ウーファーさんとしてうちに来てくれた人だ。雪が舞う氷点下の農場で、鶏小屋を造り、リンゴの剪定をし、薪割をした。薪ストーブが赤く燃える食堂で共に笑いながら食事をし、おしゃべりし、心を合わせて片付けをした。

 薬剤師として都会の大きな病院に勤めていたのをやめ、山小屋に勤め、山小屋が閉鎖される冬季を、うちで過ごしてくれたのだ。彼女の落ち着いた立居振舞、誠実な仕事、優しい心根、明るい笑顔に私たちはどんなに温められたことだろう。皆彼女が大好きだった。

 最後は走るようにして山小屋に着き、フロントで仕事をしている彼女を見た。短くした髪が良く似合い、観音様のような顔が笑みで輝き、彼女は、丁寧に来客の受付をしていた。

 その日の横尾山荘は三連休のため250人の泊まり客があり、この夏一番の混雑だと言う。その忙しさの中で、彼女はきめ細やかな数々の対応をしてくた。彼女の顔を見るたびに何故か心が弾んだ。

 帰って来て思うのは、上高地も飛び切り美しかったけれど、心に深く残っているのは、雅子さんに会えた喜びだ。こんな気持ちがあるなんて! 新たな幸福の体験だった。

ふーばあ2012年10月



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ふーばぁの田舎暮らしだより NO.26

ふーばぁの田舎暮らしたより

ふーばぁの田舎暮らしだよりー26-
                        2012.9.1. 石上 扶佐子


 10人掛けの我家のテーブルに、今日はきっちり10人の落ち着いた食卓だった。私の目の前の席で、小5の風和がそうめんをモリモリお代わりしていた。


「風和も大きくなったのね、沢山食べてくれてうれしい」と私は言った。
風和はわずかに首を傾け、口元ではにかみ、しかし、黙ってそうめんを口に運んでいた。私は見とれていたが、いつものように、気がついた。オカズもちゃんと食べないと、、、、。 
「風和、ほら、ここに、ナスと穂高豆の素揚げがあるから、冷奴も、、、、」


すかざす、風和が言った。


「僕のお皿に、それ、置かないでね、自分で取るから」
あまりにもきっぱりした言い方だったので私は驚いたが、思いあたる節もあった。オカズも食べて欲しい私は、次の瞬間、孫たちの取り皿にきっと、各種のオカズを並べ始めるのだ。隣り席の小2の和楽も素早く反応した。
「おばあちゃん、分かるでしょ。自分のお皿に食べ物がどんどん増えていったら、イヤでしょ、自分のことで考えてみてよ」。食卓の話題はその後、反抗期について、になった。

 
 そういえばかつて、末息子にも「食べても、増えるお皿は、イヤだ」と言われたことがある。その息子に昨日会ってきた。娘家族がアメリカ暮らしになるので、引っ越しの手伝いに秋田へ行った帰りに、東京の彼の家に寄ったのだ。彼の反抗期はとても分かりやすく、中2の一年間、ほぼ徹底して、母親を無視した。ついつい親風を吹かせてしまう自分を反省しつつも、私は寂しくて、布団の中で泣いたこともあった。けれど、一年が過ぎると、また、穏やかな暮らしが始まった。


 彼は大きく成長していて、私と対等になりさらには私を追い越していった。私たちは、同じテレビを見ながら、様々な問題を議論した。ふたりとも妥協せずに、個々の社会的問題にそれぞれの立場から口を出した。今回食事をしながら彼が言うには「あの頃は母さんは甘い、と思っていたけれど、今はそのスタンスもわかる。議論していてよかった」。


 私はそういうこともあったな、と思い出した。そして思う。私は忘れていたことだけど、彼には自己形成に必要な必死の反論だったのかもしれない。


 娘のところで障子貼りをしながら初めて聞いた「世代間境界」という言葉が気になってきた。子世代、親世代、祖父母世代は、通常はそれぞれ同じ世代間で問題解決のための交流や努力をし、大きな問題は世代を超えて話あうが、些細なことは互いに無関心でいたほうがいい、という心理学ではごく普通にでてくる言葉なのだという。


 骨身に浸みる言葉だった。風和がそうめんをすすりつつ抵抗したのも、反抗期の息子に無視されたのも、議論が平行線なのも、そこに境界をつくる必要があったからなのだ。


 私も生きる方向、希望の方向を変更しなければならない、と思った。大変なことだ。随分遅い気付きではあったが、気付かないでいたよりはまし、としよう。

テーマ : オーガニックライフ
ジャンル : グルメ

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