畑が教えてくれたこと 2014年1月

< 理想の暮らし方 >
年も明けて早々、「畑を使わないか」と声をかけてもらった地元のKさんのところへ挨拶に行きました。頻繁にお付き合いがある方ではありませんが、実は私がお手本にしたいと思うりんご園を作られている方の一人で、剪定作業(せんていさぎょう・冬場に果樹の枝を切って樹形を整える作業)でどうやって形を作ろうかと考え込むと畑の帰りに時々立ち寄っては参考にしている畑の一つを作られている方です。
夕方、薄暗くなる前にはと思い、いつものトラックでKさんの家へ。自宅脇には今ではすっかり少数派になった、大きな枝を縦横に伸ばす本作り仕立てのりんご園と、ワイヤーが張られた棚に整然と枝を結わえられた梨・洋梨園があります。どちらにも冬枯れした草が背丈低く地面全部を覆い、夏草の刈り込みに丁寧に手をかけていることが伺えます。 「こんなに手入れされたいい畑をもうやめてしまうつもりなのかな」と思いつつ、玄関で「こんにちは。東小倉のマツムラですが・・。」と声をかけると、玄関スペースで焚かれているストーブ用の薪(たきぎ)を一輪車で運んできたところのKさんにお会いできました。

「やあ、わざわざでてもらって悪いネ。ちょっと向こうの、H君がこれから家を建てるといってる向こう側ネ。モンパ病が出てきたんでりんごを切り倒して根っこも引きぬいたんだが、どうかネ。マツムラ君は確かトマトやニンジンも作ってるような話をきいていたしネ。2年ほど前に一度寄ってもらった時にもその畑を使うかどうかって話を君とした事を覚えていたんで電話したわけさネ」。
Kさんには後継者がなく、奥様も足を悪くされて農作業も昔のようにはできない、本人も喜寿に手が届く齢を迎えてりんご畑を縮小しているので、りんごの木を切り倒した後の畑を使わないかという話でした。「そうか、自宅横のあの立派なりんご園の話ではなかったんだ」と、生来の欲張り心に火が付きかけた気持ちはたちまちしょぼくれてしまいましたがその畑へ案内してもらった後、「まあ、入ってお茶飲んでいきまショ。そこへ腰かけてもらって。」と言ってもらい、家の玄関スペースに置いてある木製テーブルと椅子に落ち着きました。
おそらく古民家の改築か再生建築のその家を玄関あがりから見回すと、太い曲り材の梁が黒光りして、漆喰の白壁とコントラストを作っています。玄関正面から大きなガラス越しに見える中庭にどっしりと根を張っている木はおそらくカエデでしょうか。僕の座った2メートル先では大きな薪ストーブの中でりんごの枝が赤々と燃え、家全体を暖めています。母屋の反対側には広い木造農舎。軽トラックと乗用車、りんごコンテナやたくさんの農具などが整然とそれぞれの位置に納まっています。奥様がお茶と羊かんに手作りの美味しいおな漬け(野沢菜漬け)を出してくれて、いただきました。
白壁に3枚、額に納められた年代の違う家の写真がかけられています。一番古い写真は昭和15年とありますから太平洋戦争の始まる前。掘立小屋をちょっと大きくしたぐらいの家を昭和9年に立てたのはKさんのお父さんだったそうです。戦争が始まると食糧増産体制で、りんごを植えることは禁止されて麦やイモしか作れなかったとか、農薬のない昔は害虫を一匹ずつ取っては燃やしたとか昔の話や、りんごの仕立て方や土づくりの話もたくさん聞かせてもらいました。農家で生計を立てる歴史をずっと昔から続けてきたこの家には僕の理想とするものが詰め込まれていることに気付きます。自分の家からこんなに近い場所にネ。一番心に残るのはKさんのにこやかな笑顔です。